石井久氏の生涯

■■■■■■■■■ 目次 ■■■■■■■■■
【出生~少年時代】
福岡の貧しい農家に生まれる
「敗戦→インフレ」を予想し、大儲け!
反物に投機
一時、警察官に

【若き天才相場師】
証券会社へ転職
「スターリン暴落」の予想記事を書く
独立し、証券会社を設立
立花証券を買収

【バブル期以後】
バブル崩壊を予見
死去
相場で勝ち続けるコツ

福岡の貧しい農家に生まれる(1923年)

石井久氏は1923年(大正12年)に生まれた。

生まれた場所は、福岡県だった。

両親は貧しい農家だった。

13人兄弟の7番目の子供である(五男)。

小学生の時から野菜を売り歩いた。

鉄工所に就職(15歳)

1938年(昭和13年)、尋常高等小学校を卒業した(15歳)。

地元・福岡の鉄工所に入社した。

徒弟(とてい)という立場だった。要するに弟子入りしたのである。

働きながら数学などの勉強を続けた。

「敗戦→インフレ」を予想し、大儲け!

その後の1941年12月、日本は第2次世界大戦に突入した。

まだ18歳くらいだった石井氏は早々に敗戦を予見していた。

日本とアメリカの国力の差を考えた結果だった。

そして、「世の中はインフレになる」と読んだ。

インフレによって現金の価値が下がると予想した。

反物に投機

そのうえで、投資(投機)の一環として「反物」(たんもの)を買い集めた。

わずから給料から毎月手元に残ったのは2円だった。

その金で反物を買い続けた。

戦後、予想通りインフレが起きた。

物不足に陥ったためだ。

10倍に上昇

反物の価格は10倍近くに上昇した。

人生最初の投機に成功した。

反物を元手に、どら焼きをつくって行商した。

一時、警察官に

1946年、警察官になった。

転入制限のあった東京都に住むためだった。

警視庁(東京を管轄とする警察)の練習所に入り、巡査となった。

「スターリン暴落」への道

証券会社へ転職(25歳)

25歳の石井久氏は、警察官を半年でやめた。

その後、証券会社に入社した。

証券会社の名前は、「東京自由証券」。

東京・兜町にある会社だった。

近所の知人に頼み込み、紹介を受けたのだった。

そこで歩合外務員(営業)になった。

やがて自らも相場で稼ぐようになった。

有力エコノミストに弟子入り

証券界に入りたてのころ、エコノミストの草分けである高橋亀吉のところに出入りした。

勤務先の上司の紹介だった。

石井氏は高橋を「最高の師」と仰ぐようになる。

高橋から株式の注文をもらいながら、対話を通じて先生の考え方を盗んだ。

3年間で高橋の知恵を習得したという。

騰落を繰り返す株式の性質を利用し、知恵を生かしながら儲ける手法だった。

証券界に入った時の元手は3万円だった。

それが、あっという間に数千万円に膨れ上がったという。

コラム執筆を開始(26歳)

また、石井氏は証券会社で働きつつ、新聞のコラムも執筆するようになった。

26歳から始めた。

記事の投稿先は「株式新聞」。

当時、記者が不足していたという。

無給での仕事だった。

記事では「独眼流」のペンネームで用いた。

相場の観測などについてのコラムを担当した。

「スターリン暴落」の予想記事を書く(30歳)

1953年(昭和28年)2月11日、石井久氏は株価暴落を予想する記事を載せた。

「桐一葉落ちて天下の秋を知る」という見出しだった。

朝鮮特需の終焉を予見

当時、朝鮮戦争の特需で株式相場は沸騰が続いていた。

大多数の投資家が戦争は続くとみて、買いを膨らませていた。

しかし、石井だけは違った。

戦略物資関連の市況が動かない状況だった。

その一方で、米紙は、ソ連最高指導者スターリンの重体説を報じていた。

これらの情勢をふまえ、朝鮮戦争の停戦成立と株価の急激な反落を予想したのだ。

記事を投稿した翌月、予言が的中した。

相場はその後、わずか2カ月で37.8%も下落し、大底に沈んだ。

「スターリン暴落」と呼ばれた。

その後も予測を的中させた

以後、石井久氏の予告は節目節目でほとんど当たった。

岩戸相場の終幕(1961年)なども事前に予測した。

「相場の神様」と呼ばれるようになった。

独立し、証券会社を設立(30歳)

証券界に入って5年。わずか30歳の若さで、石井氏は1億5000万円もの財産を手にした。

1953年(昭和28年)に独立した。自ら証券会社を設立したのだ。

「江戸橋証券」という社名をつけた。

当初は社員数13人だった。

立花証券を買収(34歳)

1957年(昭和32年)6月、立花証券を買収した。

相場で儲けた金を元手にした。

立花証券は経営危機に陥っていた。

資本金1000万円。

社員32人。

約5000万円で買収。

小が大を飲む大胆な投資だった。

立花証券を買い取ったことで、念願だった東京証券取引所の正会員となった。

成長

立花証券を3年間で350人体制にまで拡張させた。

以来、営業マンに自分の相場観を徹底させた。

「株の専門店」を看板にした。

利益率の高さを誇った。

経営の一線を退く

1985年、執筆も講演もやめた。

1988年秋、自分が育ててきた福園一成氏(当時59歳)に社長を譲った。

石井久氏の指示により、立花証券はバブル期にも本業に徹する堅実経営を貫いた。

バブル崩壊を予見

石井久氏は、1990年以降のバブル崩壊を言い当てたことでも有名になった。

1998年には前に、投資家に退却ラッパを吹いていた。

「近いうちに暴落がくる」と言い切っていた。

自らも早々に相場から撤退した。

日本経済が暴飲暴食の限りを尽くすさまをみて、強気で相場に臨むことができなくなったのだという。

1989年(平成元年)11月22日付の朝日新聞でも「今の株式市場は、理屈があてはまらぬ異常な時代だよ」と警鐘を鳴らした。

1989年末、平均株価が3万8900円の史上最高値をつけた。

この後の1990年の年明けから、株価暴落が始まることとなった。

予言通り、バブルは崩壊した。

隠遁(いんとん)生活

プレナス投資顧問によると、石井氏はバブル崩壊を予言して以降、東京・兜町のビルの一室で、ひっそりと投資家生活を送った。マスコミとの接触を絶ち、表に出なかった。「土地が下がって不景気になって、私が疫病神のように言われる。国賊のように思われるし、発言することはよくないから、さよならと言って姿を消した」のだと語っていた。

短波放送で相場と対峙

この期間も、ラジオの短波放送などの情報を基に、相場と対峙し続けた。1日5時間の読書、長年頼りにしている知恵者との会話をたしなんだ。事務所の机の上にパソコンはなかった。外線と内線の2台の電話機があるだけだった。

死去

2011年まで立花証券の取締役を務めた。

90歳を過ぎても元気だった。

2016年4月22日に死去した。死因は肺炎だった。享年92歳。

相場で勝ち続けるコツ

石井久氏は晩年、メディアのインタビューなどで、相場を勝ち続けることができた理由を語っていた。

(1)質素で規則正しい生活

もうかっても私生活を変えないことが大事。

証券会社を設立した当時に買った家に今も住んでいる。

私は60年前に住んでいた家に今も同じように住み、同じように生活しています。

運動したり、散歩したり特別なことはしていない。

しかし、暴飲暴食をしない、不摂生をしない、夜更かしをしないことを続けている。

夜10時に寝て朝6時に起きます。

時計の針のように正確です。

8時間寝れば十分ですから、そういう生活を60年以上続けています。

不摂生では相場で勝つことは難しい。長生きもできない。

私は病気で寝込んだことも入院したこともありません。

(2)おごらない

株の世界で成功するには、おごらないことです。

人は周囲にちやほやされると喜んで、阿波踊りをやってしまう。

銀座に毎晩飲みにいって、夜更かしする人が成功するはずがない。

私は夜11時になったら、どんなお客さんでも振り切って帰ることにしています。

1度投資で利益が出てもおごらず、内外情勢の勉強を続けること。

趣味はゴルフ

石井久氏は休日、専らゴルフに励んだ。シングルの腕だった。

囲碁4段でもあった。

石井久氏の経歴・プロフィール

出来事
1923年 福岡県筑紫郡の農家に生まれた。13人兄弟の五男だった。
1938年
(昭和13年)
尋常高等小卒業。渡辺鉄工所に徒弟として入社。
働きながら数学などの勉強を続ける。
1946年
(昭和21年)
終戦後東京へ転居。一時、警視庁巡査になる。
1948年
(昭和23年)
東京自由証券に入社。
1953年
(昭和28年)
30歳 スターリン暴落を予測し、的中させる。
石井株式研究所、江戸橋証券を設立。
1957年
(昭和32年)
34歳 東証正会員の立花証券を買収。社長に就任。
1973年
(昭和48年)
立花証券会長に就任。

参考図書

●本「石井独眼流実戦録―かぶと町攻防40年」

●小説「大物」(清水一行 著)

石井久氏をモデルにした経済小説